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東海エリア探訪記
2021.10.12
鵜殿幻影[ 三重県 尾鷲市 ]
運転免許をとってから、何度とはなく海岸沿いの道をあてもなくドライブしてきた。なにかちょっとしたきっかけを見つけては楽しんだ。紀伊半島を一周しようと思いたったのも、三重県の最南端、熊野川の河口にある日本でいちばん小さな村に行ってみたいとの思いからだった。そうして鵜殿を訪れる者は少なくなかったようで、観光というのはおもしろいものである。
国道42号線は熊野街道とも呼ばれ、海岸沿いを紀伊長島から尾鷲、熊野を経て鵜殿に至る。とはいっても面積わずか2・88平方キロで、気づけば通り過ぎている。この村を成り立たせてきた大きな製紙工場のほかはなにがあるわけでもなく、ただ住宅や店舗がところせましと建ち並んでいた。それもそのはず、人口密度は三重県内でもっとも高く、1679.5人/平方キロだった。これは今日の全国ランキングに当てはめると180位台に位置する。
とくに印象的なのが熊野川に架かる熊野大橋だった。川が県境になっていて、橋を渡れば和歌山県になる。交通量は多く、橋はちょっとした渋滞になっていた。前に魚を荷台にそのまま積んだトラックが止まり、海辺の街ならではの活気を感じた。魚がこぼれ落ちるのを、海鳥が狙っていた。一羽、不用意に近づくのがいた。危ないと思った瞬間、動き出したトラックの後輪にゆっくり巻き込まれていた。目の前の現実が妙に生々しく、コマ送りで見えた。
鵜殿の歴史は古く、記紀の時代にさかのぼる。日向国(現在の宮崎県に相当)で生まれた磐余彦尊(イワレビコノミコト)が大和への東征をおこない、神武天皇として日本国を建国しようとした際、鵜殿あたりに上陸したとされる。伊弉冊尊(イザナミノミコト)が祀られ、日本最古の神社といわれる花の窟もほど近い。もちろん神話の世界がどこまで史実かは定かではないが、なにか重大な出来事がこの地であったであろうことは容易に想像できる。
平安時代から戦国時代にかけては、熊野水軍の拠点となった。壇ノ浦の戦いで源氏を勝利に導く水軍を率いたのが熊野別当で、上皇が訪れる熊野三山を統括する役職だった。源義経に仕えたことで名高い武蔵坊弁慶は熊野別当の子息で、また鵜殿城を築いた鵜殿氏もその末裔とされる。ちなみに城主の名を取って地名があるのではなく、地名にちなんでつけたのだという。桶狭間の戦いでは今川義元の家臣だったため、織田信長に破れて領地を失う。江戸時代は新宮藩に属していた。
明治時代の廃藩置県により、江戸時代の藩に代わって県になるのだが、このとき鵜殿は新宮藩であったにもかかわらず、和歌山県ではなく三重県に組み込まれる。おもしろいことがある。廃藩置県は一度におこなわれたのではなく、1871(明治4)年、まず藩をそのまま県に移すかたちで実現した。しかし、3府302県にもなって煩雑なため、2回に分けて統廃合がおこなわれた。1876年の2回目は歴史や地理の面で問題を抱えたところが多く、鵜殿もこのとき三重県になる。熊野川と支流の北山川が和歌山県との県境とされ、新宮市と鵜殿村に分かれた。
ざっとこんな壮大な物語が鵜殿に秘められていたなんて知る由もなかったが、2006年に紀宝町と合併し、日本でいちばん小さな村として全国の物好きを魅了することはなくなった。国道42号線のバイパスもでき、沿道はひっそり静まり返っていた。
文・写真/増田 幸弘(編集者)