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東海エリア探訪記

音楽で障害を乗り越えて[ 三重県 松阪市 ]

2023.04.30

名古屋市内のホールで開かれたコンサートでピアノを弾く野呂明音さん。粒立ちのよい音を奏でる。

 

 松阪には人と人が結びつく、不思議な地力がある。勘違いかもしれない。気のせいかもしれない。でも、全国各地を取材してきたなかで、これほど縁に恵まれる場所はほかに思い当たらないのだ。

「松阪が商人の街だったのはあるかもしれませんね。だれがお客さんになるかわかりませんから、人を大切にしないといけません」

 松阪に生まれ育ち、いまも松阪で暮らす野呂敏弘さんは言う。「おかげさまで」「おたがいさま」という言葉がかつて日本の経済成長を支えていたが、あまり聞かなくなって社会は停滞し、分断が進んだ。

 野呂さん家族とは娘の明音さんという知的障害のあるピアニストを通じて知り合った。初対面のとき、母の庸子さんが席を外し、楽屋のようなところで二人きりになって気まずかったのか、おもむろにバッハのフレーズを暗譜で弾きはじめた。その音色は水面の波紋のように揺らぎ、アンビエントと呼ばれる環境音楽を思わせ、心にしみた。

「明音がそんな曲を弾きましたか。譜面通りにしか弾けないはずなのですが……」

 鮮烈な印象を話すと、庸子さんはなぜか戸惑っていた。障害がわかったのは3歳児健診のとき。最初はいくつかの知的障害が混じっていると言われ、小学生のときにコミュニケーション障害と診断された。

 ピアノ教室をしている庸子さんにとって、音楽が子どもを育てるうえで救いになった。明音さんも5歳からピアノをはじめ、いやがらず、熱心に練習した。小中は普通校の普通学級に通った。家族ぐるみで勉強をみた。計算は得意だったが、国語はいくらやってもつまずき、算数でも文章題はできなかった。

 高校は音楽系に進み、さらに名古屋の音大で学んだ。弟の有我さんも音大に進み、作曲家として活動する音楽一家だ。

「ピアノが明音の支えになっていたのはたしかです。音楽がなかったら大学ばかりか、高校に行くのもむずかしかったでしょうね」

 敏弘さんは言葉を噛み締めて振り返る。卒業後はケアハウスで寮母として働き、今年で16年目になる。食事の介助や掃除が主な仕事だが、コロナ禍で中止になっているものの、月1回の誕生日会では明音さんのピアノに合わせて歌をうたったりしている。

 入居者が何人いるのか、庸子さんがこれまでいくら尋ねても返事はなかったというが、改めて聞いてみたところ「47人」と本人の口からはっきり聞けた。言葉はいっぱい知っているのに、それが出てこない、出てきにくいのだと医師から説明されているそうだが、それでもこうしたやりとりが明音さんと会うたび、断片的ながらもあった。

 松阪らしいのが“おかあさんコーラス”でピアノの伴奏を頼まれるなど、障害というハンディを越え、地域に根ざした音楽活動をつづけられていることだ。たとえテンポを間違えても、歌のほうで引っ張り、なにごともなかったようにつづける度量の広さがある。昨2022年にはじまり、この3月で7回目を数える、子どもがクラシック音楽に触れ親しむコンサート「おんいく」(中日新聞社後援)にも、ピアニストの一人に招かれている。

 親が年を重ねたいま、明音さん一人残されてからのことが懸案になっているが、グループホームなどではピアノを自由に弾くのがむずかしいといった壁に直面している。

旅行好きの家族で、左から野呂敏弘さん、有我さん、明音さん、庸子さん。写真=長崎県の端島(軍艦島)で。ご家族提供。

文・写真/増田 幸弘(編集者)

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