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東海エリア探訪記

路地の街の大きな変化[ 和歌山県 新宮市 ]

2021.08.19

新宮城跡から新宮の街を一望する。熊野川と山のぎりぎりまで家並みが三角形型に広がる。

 はじめて新宮を訪れたのはミカンの季節で、路上で売る人が目についた。朝市というわけではなく、年配のミカン売りが点々と座り込んでいた。たしか大きな黒いゴミ袋いっぱいに入って500円で、ずいぶん安かった。その光景を見て、新宮で生まれ育った作家・中上健次(1946-92)が街を路地でとらえた目線に通じる匂いを感じた。産地なのでおいしいにちがいないと、一袋、買った。もぎたてなのか、ずいぶん鮮烈で、そして甘かった。このわずかな経験が、通りすがりの街を記憶に刻み込んだ。
 四半世紀ぶりに新宮を訪れたのは、同じミカンの季節だった。またミカンを買おうと楽しみにしていたが、路上のミカン売りは見当たらなかった。その代わり、ミカンを売るお店がいくつかあった。全国展開するコンビニや飲食店も目につき、路地の街は都会の装いを身にまとい、ありふれた郊外になっていた。かつて感じたにぎわいもなく、なにかが大きく変質したように思えた。しかし、よそ者にはなにがどう変わったのか、よくわからない。一時は和歌山県でいちばん大きかったショッピングセンターができ、人の流れが変わったのだろうとしか思い当たらない。
「根本的な原因はなんといっても人口の減少です。私が子どもだった50年近く前、商店街はいつもにぎわっていました。映画館も4軒ありました。日本全国の地方都市はどこも似たような状況ですが」
 新宮にほど近い串本町出身の編集者・河野和憲さんは言う。改めて新宮市の人口を調べて驚かされた。1995年の新宮市の人口は3万6273人であったのに対し、2020年は2万6829人とこの25年で1万人も減少しているのである。この間、日本の総人口は1億2557万人から1億2622万人(ともに国勢調査)へ、少子高齢化のなかでも実は65万人あまり増えているのだから、問題は新宮のような地方の街に偏っているのがわかる。
 新宮は総務省の過疎地域自立促進特別措置法で「過疎地域」に指定されるが、全国1741市町村のうち647市町村もある。さらに25市町村を「みなし過疎」、145市町村を「一部過疎」とし、およそ半数で過疎が進む。過疎より衰退という言葉のほうが現状に即している気もするが、さまざまな施策もなかなか功を奏さないできた。
 新宮は熊野川の水運を利用した山峡の集積地として発展し、1946年に生まれた中上が新宮に暮らした時期、3万8931人(1947年)から4万5666人(1960年)と住民がピークを迎える。作品を形成する裏に、勢いのある街があった。1府7県で159店舗を展開するスーパー「オークワ」が新宮で創業したのもこの時期の1959年で、最初は「主婦の店」といった。
「新宮の商圏は三重県の熊野市から和歌山県の串本町あたりまでに広がりますが、身の回りのモノを買うのは新宮、大きなモノやブランド品の買い物なら田辺というところでしょうか。新宮は関東方面に木を売っていた歴史もあって東京への意識が強いのに対し、田辺は目が関西に向いています」
 都会的な印象は田辺のほうが強いが、新宮には熊野に根ざす文化の香りがするとの地元感覚があるとも河野さんは言う。実際、新宮界隈の出身者には作家や文化人が多い。中上健次のほか、作家の佐藤春夫(1892-1964)、文化学院の創立者である西村伊作(1884-1963)らが知られる。

新宮城の古びた石段に歴史を感じる。「丹鶴城」との異名も。天守再建を含む再建計画がある。

文・写真/増田 幸弘(編集者)

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