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東海エリア探訪記

海鮮丼とちらし

2022.10.27

 「尾鷲のほうに、うまい海鮮丼の店があるから行かないか」

 松坂に住む知り合いに、何度とはなく誘われた。とってもおいしいらしい。それでもご飯を食べに行くにはいささか遠すぎるのもあって、そのたびに立ち消えた。

「どこかおいしい店はないか」と尾鷲のあたりで聞くと、やはり海鮮丼を紹介される。このあたりの名物なのだろう。いや、郷土料理として知られる「さんま寿司」や「てこね寿司」より、見た目に豪勢なものを外から来た人に勧めているのかもしれない。

 海鮮丼は比較的新しいブームで、北海道の観光市場などで名前の通り、さまざまな海産物を贅沢に盛りつけたり、イクラやウニを山盛りにして、見た目のインパクトを競いながら全国に広まったように記憶している。デパートの地方物産展もずいぶん後押しした。いずれにしても海の近くなら魚介類が新鮮で安いという、都会に住む人間の幻想をかたちにした料理という気がする。

 さんざん噂を聞かされた「かい鮮や」の近くにいるのに気づき、行ってみた。やはり海鮮丼が看板らしく、メニューに目立つように書いてあり、値段はリーズナブル。行列ができるほどの人気店と聞いていたが、食事時をはずれていたせいか、すぐに入れた。もちろん海鮮丼を頼む。

おふくろ(尾鷲市)の海鮮丼。見た目に華やかさがある。

 これまで刺身が丼に盛ってあると、醤油をつけるのに少し食べにくいとの先入観を抱いていたが、甘めのたれが厚めに切られた刺身によくなじんでいて、このたれの工夫が海鮮丼の妙味なのかと思った。

 実を言えば、これまで数えるほどしか海鮮丼というものを食べたことがなかった。刺身定食として別盛にしてある刺身を、熱々のご飯と食べたほうがいいと思ったのもある。「丼」であるからには普通のご飯のうえに具がのっているはずで、それなら酢飯を使うちらし寿司がいいと思ったのもある。

 地元の人に勧められた「おふくろ」という店にも行ってみた。ここも人気店で、昼時とあって満席。天ぷらやフライ、麺類など豊富なメニューを取り揃え、地元の人たちの食堂となっているところが繁盛の秘訣だろう。

 この店の海鮮丼は普通のご飯が標準だが、酢飯も選べるとのことでお願いしてみた。最初の店より値段が倍近く高いのもあり、ウニやカニ、イクラとネタが豪華。でも、これは海鮮丼というより、ちらし寿司かもなと疑問が浮かぶ。ピンク色のでんぶ(田麩)が散らしてあるところも、子どものころは握りより好きだったちらしっぽい。

 とはいえ寿司ネタが並ぶちらしは全国的には実は少数派で、干し椎茸や干瓢、錦糸卵などの具材を混ぜた「五目寿司」「ばら寿司」をちらしと呼ぶ地域のほうが多い。歴史もそちらのほうが古い。東京のちらしはそもそもは寿司屋の賄い料理だったらしい。  なんだかややこしいので、生魚を入れたちらしを海鮮丼とし、区別したというのが真相のようだ。とはいえ厳密なものではなく、お店が「丼」と名づければ「丼」で、「ちらし」なら「ちらし」なわけである。内容もお店によってずいぶんばらつきがあり、個性を競い合っているのがおもしろい。このあたり、「今川焼き」「回転焼き」「大判焼き」が地域差でほぼ説明できるのとはちがうわけだが、日本語はなかなかむずかしく、食が絡むといっそうその奥行きを増すのである。

 国道311号線を尾鷲から熊野に向かう途中、市街に入る手前あたりで「鬼ヶ城」との案内看板を見かけた。なんとも魅力的な、いかにも観光地な名前に惹かれたが、何度か通り過ぎ、ようやく立ち寄ったのは帰る間際だった。真っ先に行ってもおかしくはないのに、そう思わせてしまうところが、いま各観光地の抱える難しさなのかもしれない。

 鬼ヶ城は天然記念物にも世界遺産にも指定される景勝地で、熊野灘に突き出た小さな岬である。荒波に削られた海食洞が断崖絶壁に複雑に入り組み、見応えがある。平安時代には「鬼岩屋」と呼ばれ、鬼が住んでいると見られていた。かつては海からしか近づけなかったというから、実際、そんな感じだったのだろう。

 全国に知られるいきさつがなかなかおもしろい。大正の終わりから昭和のはじめにかけ、地元の人たちが一生懸命、運動したのである。熊野市に合併される前、鬼ヶ城のあるあたりは木本町という人口6000人ほどの町だったが、「鬼ヶ城宣伝の設備に関する建議」を採択。立て札や売店の設置をおこない、町民が手弁当で遊歩道を整備した。大阪の新聞社が「日本新八景」の募集をはじめると、町を挙げて応募し、115万票あまりを集めたのだからすさまじい。おかげで8位に入選し、提灯行列がおこなわれ、映画まで撮影された。

 国立公園法が施行されたのはちょうどそのころ、1931(昭和6)年のことだった。全国的にそうした機運が高まっていたのだろう。36年から41年にかけて国立公園を題材とする32種類の記念切手も発行され、盛り上がっていた時代状況がいまに伝わる。

 国立公園の記念切手は49年から56年に38種が、62年から74年に52種が、また国立公園に準じる国定公園の切手も58年から73年に59種がつくられ、豊富なバリエーションで人気を集めた。吉野熊野国立公園には合わせて4枚もあり、鬼ヶ城は選ばれなかったものの、すぐ近くにある獅子岩をとらえた切手が49年に出ている(のちに両者を併せて「熊野の鬼ヶ城 附 獅子巖」と呼ばれる)。

 1970年に国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」がはじまり、国立公園をはじめとする観光地ごとに細かく設定された周遊券が準備された。国立公園のガイドブックも書店の一角を占めていた。国民宿舎やユースホステルが各地に建てられ、最盛期には前者は全国に400近く、後者は約600あった。

 しかし、バブル前後からこうした旅のありようがすたれ、国立公園や天然記念物は世界遺産に取って代わられていった。鬼ヶ城も2004年、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として指定されている。同じものが別のものになったわけである。

 なにがあったのだろうかと考えると、自家用車の普及がいちばん大きいのかもしれない。移動に自由があり、時刻表を見て計画をたてることなく、いつでも寄れるというラフな意識で旅行ができる。統計を見ると1960年に290万台だった自動車保有台数(二輪車・軽自動車を含む、国土交通省)は70年に1653万台、80年に3733万台、90年に5799万台、2000年に7458万台と40年間で爆発的に増えたのち微増傾向に変わり、2021年は8249万台となっている。

 クルマで移動しているとまた来ればいいと後回しにしてしまうこともあるが、古くからの名所旧跡はたいていどこも見応えがあり、思わぬ発見があるのはたしかなのである。

文・写真/増田 幸弘(編集者)

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