MARKETING MAGAZINE

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東海エリア探訪記

2020.08.27

入り江から世界へ真珠を届ける[ 三重県 南伊勢町 ]

どれだけ大胆なデザインも周囲の目は気にせず、自分で選ぶ海外の顧客に支えられていると上村栄司さん。

 阿曽浦は入り組んだリアス式海岸の奥の奥に広がる入り江の集落で、漁村ならではの匂いとたたずまいが広がる。細い路地をぐるぐる回ってもなかなかたどり着けず、郵便局に聞いてもわからない。あてもなくさまよっているうち、ようやく海辺の隠れ家を見つけた。
「私が子どものころ、そう40年近く前まで、このあたりでいちばん大きな街である伊勢に行くには巡航船と呼んでいた定期船を利用しました。いまでは車で40分ほどですが、山にトンネルができるまでは海岸沿いの道を3時間ほどかけていきました」
 上村真珠養殖の上村栄司さんは振り返る。1928年、祖父の代にこの地で真珠の養殖をはじめて3代目になる。真珠王と呼ばれた御木本幸吉が1893年、養殖に成功したことから伊勢志摩と真珠の関わりははじまるが、パリやロンドンの宝石商は天然の真珠と見分けがつかない養殖の真珠を詐欺と言い立てた。事態は裁判にまで発展するが、1924年に天然と養殖のちがいはないとの判決を受ける。世界に認められたことで勢いづいた時期に、上村さんの祖父は真珠の養殖に参入する。
「真珠は丸いものがいいと長らく言われてきました。天然の真珠でまん丸いものは奇跡でも起きなければできない珍しい、とても高価なものだったからです」
 天然真珠の主産地だった中東のバーレーンやクウェートは壊滅的な打撃を受け、代わりに発展したのが石油の採掘だった。しかし、いつしか真珠は丸いのが当たり前になるなか、日本全体の生産額は1990年の885億円をピークに大幅に落ち込み、近年は100億円を少し上回る程度で推移している。
 このままでは真珠養殖は残らない。消えてなくなることはないだろうが、とても小さな市場になる。そんな危惧から上村さんは二つの方向から生き残りを模索してきた。一つはこれまでにない真珠をつくりだすことで、その姿勢を「ブドウから種なしを開発したようなもの」と喩える。失敗の連続だが、ビジネスとはとらえずに試行錯誤をつづける。もうひとつは養殖した真珠を自らデザインして付加価値をつけることだった。
「生産者として真珠を見る目は人一倍あります。デザイナーは見た目からどう組み合わせるかにこだわりますが、さらに真珠一つひとつの特性を活かし、アートっぽいことをはじめてみました」
 古典的なものであればだれかがやるので、もっとちがうことをやろうとした。しかし、当初は強い戸惑いがあり、その気持ちが「アートっぽい」という及び腰の表現になった。しかし、ニューヨークや香港など普通とはちがうものを求める人が多い海外の反応によって次第に自信をもち、いまは作品をアートだと言ってはばからない。
「メイド・イン・ジャパンが輝いていた時代を知っていますが、いまは日本でも三重でもあるいは伊勢志摩でもなく、メイド・イン・阿曽浦であることを誇りたいと思います」
 インターネットが普及するまで、東京でないと発信できないものがたしかにあった。しかし、いまは生まれたこの地でなければできないものがあると上村さんは感じる。潮の満ち引きを眺め、飛び交う鳥のさえずりに耳を傾ける。そこから無限のインスピレーションが湧き、アイデアにつながるという。

文・写真/増田 幸弘(編集者)

わかりづらいところにある上村真珠養殖の工房。静かな時間が流れる。