MARKETING MAGAZINE
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東海エリア探訪記
2021.04.13
熊野古道の拠点として[ 三重県 尾鷲市 ]
はじめて私が熊野古道を訪れた1990年代はまだ、知る人ぞ知る、ずいぶん鄙びた場所だった記憶がある。江戸時代に流行ったお伊勢参りでも、熊野まで足を伸ばしたのは10人にひとりいるかどうかで、ほとんどは高野山、大阪や京都を見物し、帰りに善光寺をお参りするルートを一カ月あまりかけて回っていた。それが2004年に世界遺産に登録されたのをきっかけに事態は一変する。2年後には熊野古道センターという大がかりな拠点が尾鷲市に開館し、年間11万人もが訪れるにぎわいを見せる。
「熊野古道のうち、おもに伊勢路と呼ばれる三重県側の部分について情報を収集・分析し、発信する役割が当センターにはあります。地域の交流拠点として音楽や映画のイベントも開催しています。和歌山県側には別途、世界遺産センターがあります」
三重県立熊野古道センターのコーディネーター、橋本博さんは言う。かつて博物館の専門職員を「学芸員」と総称していたが、いまどきはあまり使わないのだそうだ。たしかに美術館も「キュレーター」が一般的になった。
橋本さんの説明を受けながら展示を見ていくうち、漠然としていた熊野古道の全体像が少しずつ見えてくる。もともとは集落と集落を結ぶ生活道であったこと。それが平安時代、「蟻の熊野参り(熊野詣)」と呼ばれるほどの人気を集め、熊野三山に通じるこの道を皇族や貴族、あるいは庶民が行き来するようになったこと。背景には熊野を浄土と見なし、行けば生まれ変われるとの信仰があったこと。それで罪を犯した人や病気の人らが険しい道を歩き、苦行をしながら熊野に向かったのである。伊勢神宮と熊野速玉大社を結ぶ伊勢路はおよそ170キロあるが、江戸時代の人は5日かけて歩いた。おもしろいことに現代人の足だと6日はかかり、藁草履の時代のほうが、しっかりした靴のある現代よりも歩くペースがぐんと速かったわけだ。とはいえ実際には熊野詣がどのようなものだったか、すべてがすべて、わかっているわけではない。
「字の書ける高貴な人の記録が残っているだけで、庶民の記録はありません。ある程度は真実だとしても、作り話が含まれている可能性も否めません」
熊野をわかりにくくしているのは、神仏習合だったのもある。現在の認識では熊野三山は神社になるが、長らく神社とお寺が共存していたのだ。全体はお坊さんが取り仕切り、阿弥陀如来が神様だった。熊野古道センターの展示にある参詣の様子をとらえた曼荼羅は、その姿をはっきりとらえている。 明治維新で神と仏が分けられ、廃仏毀釈によって熊野はそのありようを根本的に変えていく。修験道や陰陽五行も影を潜めた。
「明治末期、国は神社を合祀する政策を打ち出しますが、熊野で植物採集をした南方熊楠はここには貴重な樹木があり、社叢を守る必要があるとの運動を展開しました。熊野古道が今日まで残ったのはそのおかげです」
南方熊楠(1867-1941)といえば、和歌山出身の博物学者。国内外で名を馳せる在野の学者だが、一方で「風呂に入っても身体を拭かない」だとか「3日は寝なくても平気」といった奇行も伝わる。その熊楠がこうしたかたちでいまの世の中とつながっているとは思いもしなかった。
文・写真/増田 幸弘(編集者)