MARKETING MAGAZINE
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東海エリア探訪記
2018.06.19
奈良時代に思いを寄せる
河が曲がると書いて「かわの」と読む。戦時中、鈴鹿市に合併されるまではひとつの村だったが、いまはJR関西本線の駅名として残る。川が蛇行しているわけではなく、このあたりで本流の鈴鹿川に支流の浪瀬川が流れ込む。
河曲駅は田んぼに囲まれた無人駅で、日中ということもあってか、降りたのはわずか数人だった。あぜ道のような細い道をとぼとぼ歩いていく。途中、田んぼで農作業をする人を遠くで見やり、お堂のお地蔵さんに出会う。きっと今も昔もよく似た田園風景が広がっていたのだろうことは想像できても、奈良時代、この界隈はとてもにぎわっていたとは思えない。当時、日本は大和国を中心に68の令制国に分かれていた。律令制は10世紀にはなくなるが、地理的な区分としてその後も江戸時代まで受け継がれた。
「伊勢は大和の隣に位置する重要な拠点で、この地には国分寺と国分尼寺がおかれました。7キロほど離れた場所にある国府と呼ばれる役所とあわせ、律令制の要とされました」
と鈴鹿市考古博物館学芸員の吉田真由美さんはざっくり説明する。伊勢国分寺跡に隣接する博物館だ。国分寺とは天皇の詔で各地に建てられた官営の寺院のことで、仏の力で国を安定させるもくろみがあったとされる。国分寺というとJR中央線の駅名をまず思い浮かべるが、駅から20分ほど歩いたところに武蔵国分寺跡がある。当時の寺院がそのまま現存しているところはなく、伊勢国分寺のように遺構となっているか、なんらかの寺院が跡地に建っている。
吉田さんの案内で博物館3階の展望台から遺跡を見下ろした。およそ180平方メートル四方で、南門をくぐると回廊で結ばれた中門があり、本尊を安置する金堂があった。その奥に講堂と僧坊がつづく。国分寺に不可欠とされる七重の塔がどこにあったかはまだわかっていない。国分尼寺は遺跡の東側、現在、集落があるあたりにあったらしい。「国分寺」の額を掲げる常慶山国分寺がいまはあるが、それほど大きな規模ではない。
博物館では国分寺があったころの暮らしをジオラマなどで再現し、空想を膨らませる一助としている。おもしろいのが食事で、庶民は玄米にヒジキの煮物、野菜もしくは山菜の汁物のほか、一盛りの塩が添えられる。貴族の食卓は豪華になり、白米に鮎の姿煮、アワビのウニ和え、ワカメの汁物などがおかずに出る。さらに里芋、ミカン、シイの実、ヒシの実、クルミなど季節の盛り合わせが加わる。現代の食卓は貴族向けに近く、それだけ豊かになったのがわかる。ご飯というより、酒のつまみにも思える。
鈴鹿市には「さぁ、きっともっと鈴鹿。海あり、山あり、匠の技あり」という公募で選ばれた“都市イメージキャッチコピー”がある。たしかに昔の人の食事も海あり、山ありで、それだけ暮らしやすかったのだろう。鈴鹿には100あまりの指定文化財をはじめとする数多くの遺跡があることでもわかる。このため考古博物館には埋蔵文化財センターの役割もある。
律令制は今日につづく国のあり方の源流である。いまはなにがあるわけではない遺構をぼんやり歩きながら、当時の人びとの暮らしを想像し、歴史に思いをはせる。そこにはきっと混迷する現代社会の問題をひもとくヒントがあるはずだ。時を超え、この大地で人びとは営々と生きてきたのだから。