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東海エリア探訪記

2018.12.19

障害者が社会を変える

 扉を開けると、さまざまな障害をもった人たちがそれぞれ一生懸命、なにかに打ち込んでいる。絵を描いたり、楽器を弾いたり、飛び跳ねたり。 「個々人がもともともっているものを表現するとの発想でやっています。こういう形だから、その形に近づける訓練をするのではなく、自分を音やメロディ、色や線、形で表すわけです」

 松阪にある生活介護事業所「希望の園」で代表を務める村林真哉さんは言う。彼自身、美大を卒業後、ドイツのデュセルドルフに留学を果たした画家で、ミュージシャンでもある。障害者との出会いは美術教師として特別支援学校に赴任したときのこと。なにかを表現しようとしてきたそれまでの自分に比べ、純粋に描く姿に心を打たれる。ドイツ留学の経験から、障害者の美術作品が高く評価されるのを知っていたこともあり、それを機に希望の園と関わりはじめる。
「自由にやってもらっていいとのことだったので、少しずつ広げてきました」

 もともとは1981年にさかのぼる福祉作業所で、村林さんは98年から携わる。日本におけるアール・ブリュットの紹介は世田谷美術館の取り組みが古く、開館時の1986年からコレクションをおこない、93年の「日本のアウトサイダー・アート」展が注目を浴びた。95年には障害者芸術を見直すエイブル・アートの運動がはじまるが、当時はまだ一般的ではなく、あくまで福祉や支援の枠組みとしてとらえられていた。

 別棟がアトリエになっている。描いている途中の絵がいくつもそのままにしてあり、三々五々、集まっては少しずつ描き込んでいく。緻密さや色使いに驚かされる作品が少なくない。モノのとらえ方が一人ひとり個性的で、こだわりもちがう。まず絵を紙に描き、それをケシゴムで消していくことでできた、色つきのカスを固めたものを作品にする人もいる。それぞれが実にユニークだ。
「うまく描きたいとか、成功したいと思ってやっているわけではないんです。ただ自分をぶつけている。みんなほんとうに才能豊かなので、もっと多くの人に知ってもらいたいと思っています」

アトリエで制作中の障害者。現実とはまったくちがう世界をつくりあげていく。

 この10年あまり、アール・ブリュットが世界的に広まり、希望の園までフランスの画廊がはるばる買い付けにくる。外国人が訪問すると買いに来たのがわかるらしく、「これどうですかね」と勧めたりするのだそうだ。とはいっても自分の作品を売り込んでいるわけではなく、ほんとうにいいと思っている作品を選んでいる。松阪市や三重県で開催される展覧会などで入賞して表彰されると、周囲の見る目ががらりと変わる。ただ不自由な人が地域にいるというのではなく、こういう才能ある作家がいるとわかってもらえるからだ。小中学校での交流活動も年間50回以上やり、子どもたちと一緒に絵を描いたりして触れ合うことで、さらに地域が変わってくる。
「障害者というとお世話するとの目線がいまどうしても主になっていますが、そうではなく、一人ひとりに自分を出させ、それを社会のなかで活かすことで、社会自体の価値観を膨らませるのが大切な視点だと思います」

 松阪という地方の街でつくったものをパリでもニューヨークでも世界中どこでもいいから発表する。輪をどんどん広げていかないといけないとの思いが村林さんを駆り立てている。

「新しいものを考えたり、つくるのが人間だ」と、希望の園代表の村林真哉さんは言う。