MARKETING MAGAZINE
マーケティングマガジン
ナゴヤ愛
2024.10.18
第21回
自主夜間中学「はじめの一歩教室」は、誰もが「助けて」といえる支援の入り口
2025年4月に夜間中学が筆者の住む愛知県(名古屋市・豊橋市)にも開講されます。夜間中学とは公立中学校の夜間学級のこと。
夜間中学は、戦後の混乱期に義務教育を終えることができなかった人たちのために、昭和20年代に開校されました。昭和30年頃には、全国の夜間中学の数は80校以上にのぼりましたが、高度成長期の社会情勢の変化に伴って減少。現在では31都道府県・指定都市に53校を残すのみ。
かつては過去のものとなりつつあった夜間中学。しかし現在では再度、夜間中学を開校するための活動が全国的に活発化しています。
2023年度の全国の大学進学率は約6割、専門学校などを加えると8割を超えるそうです(文部科学省「学校基本調査」より https://www.mext.go.jp/content/20230823-mxt_chousa01-000031377_001.pdf)。
このような大学進学率上昇の傍らで、2020年度の国勢調査の調べでは、義務教育未修了者(小学校が最終学歴)が全国に約90万人いることがわかっています。
高学歴の人々が社会の大多数を占める中、教育制度から取りこぼされた人たちのために、夜間中学の開校が求められているのです。
戦後と異なる現代社会で「教育制度から取りこぼされた人たち」とは、どのような人たちなのでしょうか?
「愛知夜間中学を語る会」および自主夜間中学「はじめの一歩教室」を主宰する笹山悦子さんにお話を伺いました。
「自分が役立てる場所」を探した、教員なりたてのころ
笹山さんは愛知県立高校夜間定時制課程の教員のかたわら、「はじめの一歩教室」を主宰されています。そもそも、笹山さんが夜間定時制課程の教師になったきっかけは何だったのでしょうか。
「わたしは学生時代、勉強ができる方ではなかったんです。教師になって最初に赴任したのは偏差値が高い学校で、生徒たちはみんな、何も言わなくてもちゃんと勉強するんですね」
この学校の生徒たちは「助けなどなくてもできる子たち」。ここでは自分が役立てることはないと感じた笹山さんは、次に真逆の荒れて偏差値も低い学校に赴任。今度は「荒れた学校は荒れる前にどうにかしなくてはいけない」ことを学んだといいます。
そんな笹山さんの人生の価値観を変えたのが、次に赴任した高校でした。
生徒が先生になる瞬間
次に赴任した高校は通信制でした。普段は通信制でも、週に一度対面授業があります。
当時通信制高校を受講していたのは、ほとんどが中高年の人たち。戦争で学校に行けず、ほとんど学ぶことができないままに「形の上だけ中学を卒業した人(形式卒業者)」たちでした。
通信制高校には、笹山さんを慕ってくれる生徒がたくさんいました。病気で入院先の病院から通っていた男性が、しばらく会わないうちに亡くなっていたこともありました。
生徒は笹山さんよりも年長者がほとんどで、生徒から教わることも多かったといいます。教師と生徒の関係は常に一方通行ではないことに気づきました。
子どもに教えていても「生徒が先生になる瞬間は訪れる」と笹山さん。生徒に敬意を持ち、理解すること、リスペクトすることが大切だといいます。
悩みの根底にある「自己肯定感の低さ」
次の高校に勤務するかたわら、教育相談で年間200件もの話を聞いたという笹山さん。
「相談内容は人それぞれですが、根底にあるのは『自己肯定感の低さ』だと感じました。自分はこのままでいいのか?役に立てていない、と落ち込むのです」
世の中の「ものさし」に自分をあてはめようとするから苦しいのだと笹山さんはいいます。その「ものさし」は世の中がつくったものにすぎません。
「世の中がつくった『ものさし』にうまくあてはまらなくてもいい。自分で自分の『ものさし』をつくればいいんです」
定年間際になって、現在の県立高校夜間定時制課程に希望を出しました。生徒の年齢はバラバラです。通信制高校のころとは異なり、今は若い人が多いといいます。不登校や引きこもりで学校に行けなかった子どもたちです。
笹山さんの「子どもたちが居場所をもち、『自分のものさし』を持ってほしい」という想いが、新たな活動に結びついていきます。
自分で自分の「ものさし」をつくる~「はじめの一歩」立ち上げ
笹山さんが自主夜間中学「はじめの一歩教室」を立ち上げたのは2020年5月。コロナの中で孤立する子どもたちの居場所づくりのためでした。
「はじめの一歩教室」のある名古屋市北区上飯田地区は、昔から「人と人とのつながりが濃い地域」だといいます。コミュニティを求めて、わざわざ移住してくる人もいるほど。
もともと、「待っているより自分たちで作ってしまおう」という考えの人が多いという同地域。地域の人たちの力で学童保育や0歳児 OKの共同保育所もつくったのだそう。産休や育休のない時代には、どれほど働く親たちの力となったことでしょう。
現在の同地区も、保育園が足りないこととは無縁。なんとポストの数より保育園が多いのだそう。
コミュニティの「濃さ」は、「はじめの一歩教室」にも大いに役立ちます。笹山さんが「キーパーソン」だという本田直子さんが現在の場所を探して来てくれました。もともとデイサービス用の建物なので、3階建てでエレベーター完備、ヒノキ風呂もあります。
一人ひとりと向き合うむずかしさ
「はじめの一歩教室」は、年間42~43回開催し、一回に20~50人の学習者を受け入れて来ました。
最初は地域に住む外国籍の子ども数人だったのが、その家族や不登校の子どもたち、「中学形式卒業者」の高齢者など、どんどん学習者の数は増えていきました。
4年間で年齢・性別・国籍などを超えた350人以上を支援。現在では教室も4カ所に増えました。
苦労したのは教材づくりです。なんと教材は、学習者一人ひとりのレベルや状況に合わせた個別のオリジナル。それは大変です。
また、学習者一人ひとりが抱える悩みすべてに支援者が一人で寄り添うことは困難だといいます。そのようなときは、どうやって解決するのでしょうか。
「支援するのは自分一人ではないということです。この活動も最初5人ではじめたのが、今は関わる人が80人に増えています。大変だったら誰かが助けてくれます。皆信頼できる人たちですが、関わり方は人それぞれ。毎回でなくてもほんの少し関わるだけでいいんです」
柔軟でフラットな関係でなければ、学習者も支援者もいろんな人が入りにくくなります。
大切なのは「助けて」といえること。「学習者だけでなく、支援者の側も大変なときや抱えきれないときは、躊躇なく『助けて』といえることが重要です」と笹山さんは話します。
お嬢さん生活から一転、馬小屋で生活した母
笹山さんが現在の活動をはじめた想いの奥には、笹山さん自身の母親の存在があるといいます。
「今思えば、母自身が『形式卒業者』だったんです」と笹山さん。
笹山さんの祖父は省庁の役人でした。戦前は東京下町の立派な邸宅で母は何不自由なく暮らしていたといいます。その自宅が浅草の大空襲で焼けて一家で疎開したため、東京に戻ることができなかったのだそう。
「茨城の遠縁の家に疎開し、馬小屋で9人で生活することになりました。母は成人するまでそこで暮らし、結婚後にわたしを連れて帰ったこともあります」
子どものころから、母親と話していると、勘違いで話がおかしな方向へ進むことがあったと振り返ります。
「母は言葉を知らなくて、たとえば『大学の集中講義』を『大学の集中攻撃』と間違えて大騒ぎするんです。あわてて、『大丈夫よ、学校で攻撃されたりしないわよ』と説明したりしていました」
若い頃には、そんな母親を恥ずかしいと感じたり、反発したりしたこともあったといいます。母が「形式卒業者」だったかもしれない、と気づいたとき、激しく後悔しました。
「今のわたしの活動は、もしかしたら『自分の母にしてあげたかったこと』なのかもしれません」
最初に「ココにつながる」支援の入り口
自主夜間中学「はじめの一歩教室」開催と同時に、公立夜間中学の必要性を訴えてきた笹山さん。その甲斐あって、2025年4月には愛知県内にも夜間中学がついに開校します。
しかし、今後も「はじめの一歩教室」は変わらずに続けるとのこと。公立の学校とは役割が異なるからです。自主夜間中学は学校と地域を結び付け、学校と協力・連携していくことになると考えています。
「名前の通り『はじめの一歩』は、最初につながる場所としてここにあります。支援の入り口です」
「助けて」といえる「ステーション」が「はじめの一歩教室」。誰でもOK。来る方法も、徒歩でも自転車でもバスでもなんでもいい。そんな緩やかな「居場所づくり」をしていきたい、と笹山さんは話します。
(取材・文・イラスト / 陽菜ひよ子)