MARKETING MAGAZINE
マーケティングマガジン
東海エリア探訪記
2023.08.31
‐エピローグ‐人を大切にする社会へ
本欄は2001年6月、「東京人のナゴヤ考証学」というタイトルではじまった。いまとなっては「東京人」という言葉に気恥ずかしさを感じないでもないのだが、名古屋を中心とした愛知周辺の話題を他県出身者ならではの好奇心から「考証」するのが企画の主旨だった。
四半世紀あまりの移り変わりを振り返れば、驚きにあふれる。「名古屋めし」が気づけばすっかり全国区になり、コメダ珈琲店や世界の山ちゃんが各地にできた。天むすも広まった。西尾市にある町の薬屋さんだったスギ薬局はいまや有数のドラッグストアチェーンにまでなった。バブル崩壊後、「失われた30年」と言われる不景気がつづくのをものともしないこの地域の強みはなんなのか、経済誌でもたびたびテーマにされているが、一度親しくなると家族のように関係を大切にするところにあるのではないかとしみじみ感じている。
2006年4月からは「東海エリア探訪記」というタイトルにして、まずは岐阜を回り、さらに三重を回った。実はこのときから私は家族と海外に移り住み、日本に行っては取材を重ねてきた。外国人の目線で日本の変化を見つめることで、風変わりなルポルタージュが実現できたのではないだろうか。
岐阜と三重の人びとが紡ぎ出す風景は、宝箱を覗き込んでいるようで、見慣れた日常が輝いて見えた。1980年代の半ばごろまで、東京と地方には外国に行くくらい大きなちがいがあった。言葉がちがえば人当たりも食事も大きくちがった。商店街に建ち並ぶ店にもずいぶん地方色があった。スマホでどこにいても情報を検索できる時代、つい口コミを見てしまうが、鼻を利かせ、勘に頼って探すほうがいまだっておもしろい出会いはある。
岐阜では「山の民」ならではの気質を感じる場面が多く、山間でかろうじて受け継がれる職人仕事に触れるたび、かつて「Made in Japan」を世界一にした者たちの矜恃を垣間見た。腕を買われ、名だたる銘柄をOEMとして生産委託されても、やはり自社ブランドがいちばん力が入ると屈託なく胸を張る職人の姿が目に焼き付いている。
海あり山ありの三重には千葉の房総とよく似た気質を感じた。両者をつなげるのが黒潮で、実際、黒潮に乗って古くから行き来があり、同じ地名がある。本欄で紹介した暮らしぶりや働き方の事例は、そんな人とのつながりから出会ったものだ。取材に通いながら「コミュ障」なところがある私でも、三重なら心地よく暮らせると思ったほどである。
私と東京新聞(中日新聞)との関わりは1980年代半ば、大学生のときに広告局の整理部でアルバイトをしたのがきっかけだった。そのころ社屋は品川の港南口にあったのだが、再開発されて「洗練された街並み」と言われているのが信じられないほど鄙びていて、長く暗い地下通路を歩いた先に小さな駅舎があり、駅前ロータリーには大きな木が茂っていた。
私の仕事は「送りの確認」と言い、広告原稿が予定通りか代理店に電話したうえ、原稿が揃ったかをチェックすることだった。紙焼きとフィルムのほか、まだ活版もあった。原稿は代理店の方がもってきてくれるが、大口には取りに出向いた。最後に上野駅へ行き、北陸中日新聞向けの版下を「チッキ」と呼ばれる託送手荷物の窓口に預けた。翌朝に着くブルートレインで運ぶのである。
デジタル化が進んだいまはネットのやりとりで完結できるであろうことも、すべて手作業でやる必要があった。一つひとつに人との関わりがあり、対面があり、目には見えない手間が「情報」を生み出し、裏打ちしていた。
新聞の募集広告をたまたま見かけて縁ができた会社に定年の年までお世話になり、東海エリアがライフワークのひとつになるとは思ってもいなかった。新聞のありようも、街や社会のありようも大きく様変わりしてきたが、長年の取材で学んだものを要約すれば、人を大切にするこの地域の特性こそ、いまの日本にいちばん求められているということになる。
長らくのご愛読、ありがとうございました。
文・写真/増田 幸弘(編集者)