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東海エリア探訪記

石を売る【三重県 熊野市】

2019.08.05

那智黒石で花瓶を加工する徳村達男さん。道の駅などで土産物として人気を集める。

 那智黒という言葉を最初に知ったのは、庭に敷く玉石だった。落ち着いて見える黒光りする石は、ほかの石より値が張った。それから和歌山県の土産として、那智黒という黒砂糖の飴を知った。たしかに玉石と黒飴は似ていなくもない。

 「あれは七里御浜などで採取された石で、那智黒石とはちがうものです」石の加工をおこなう徳村達男さんに、意外なことを聞かされた。地域が近く名前が同じで、見た目も同じ黒ではあることから混同されがちだが、まったく異なる地層から産出した石だといわれる。徳村さんは曽祖父の代から那智黒石で碁石や硯をつくってきた。硬めの石なので墨を磨るのに時間はかかるが、滑らかで筆運びがいいことから、書家に認められてきた。平安時代にさかのぼるといわれ、なるほど熊野詣が盛んだった時代に重なる。

徳村さんの父親が徳村屋の屋号を立ち上げたのは1961年のことだった。そのころの主力は碁石で、四角い石を砥石で磨いて丸くするなど手間と時間がかかるため、30人近くの職人が一所に働いていた。丸みをつける微妙なアールのちがいは職人の腕の見せ所だが、黒181個、白180個の碁石が揃ってなくてはならず、一目でちがいがわかるようでは困る。そのあたりに碁ならではの妙味があった。

1963年に熊野川水系である北山川を堰き止めて七色ダムの工事がはじまるまで(完成は65年)、集落は筏の乗り換え地としてにぎわった。上流から材木を組んで河口域に広がる新宮の街に向けて流すのだが、筏師は歩いて帰れる距離まで運んだら交代するのが習わしだった。そのころには商店もかなりたくさんあったという。

25年ほど前、徳村さんは碁石づくりをやめてしまう。碁石は白黒揃ってはじめて成り立つところにむずかしさがあった。
「白はハマグリの貝殻を加工してつくるのですが、宮崎県日向市の職人とタッグを組んでいました。われわれは組合をつくって足並みを揃えていたのに対し、日向のほうはまとまりがなく、価格競争に明け暮れたのです。振り回されてしまい、見切りをつけました。もっと自由に商売できるのであれば、つづけていたかもしれませんが」

 徳村さんはいまはやめて正解だった考えている。世間や時代のニーズに合わせて自分自身が変わっていかないと取り残され、生き延びられない。それが職人として打ち込んできた人生のひとつの答えだった。実際、集落には20軒近くの加工業者がいたが、いまでは2、3軒にまで減っている。跡を継いだ息子の芳之さんが大学でデザインを学んだことを活かして、那智黒石を使ったアクセサリーづくりにも打ち込む。それは父の言う需要に合わせた変化なわけだが、最初は反対された。「祖父は認めてくれたのですが、父にはそんなものは売り物にならないと言われました。もっと下積みしろと言いたかったようです。いまは家族だけでやっています」芳之さんはそう振り返るが、長年商売をしてきた感覚から、宝石業界は体質が古い分、昔からのしがらみがつよく、新規参入はむずかしいと見抜いていた。「商売と職人気質をうまく織り込んでいかなくてはなりません。職人は見えないところで努力しがちですが、わかりやすい付加価値をつけないとなかなか理解してもらえません」地べたを這って生きてきた職人の言葉を重く受け止めた。

文・写真/増田 幸弘(編集者)

那智黒石の原石の前に立つ徳村芳之さん。山を少し入ったところに、剥き出しで切り立っていた。

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