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東海エリア探訪記

2019.10.29

海を知った研究者
【三重県 尾鷲市】

 魚が獲れなくなった。いまから30年前の1990年代はじめ、東京新聞に「海辺の風景」という記事を1年間にわたって連載するため、毎週のように漁船に乗せていただき、沖に出ていた。そのとき、そんな愚痴を漁師からよく聞かされた。大きな船で何時間もかけて漁場に行ったのに、ほとんど獲れずに帰港する現実も目の当たりにした。魚を輸入したり、あるいは稚魚を放流する試みが盛んになるのもそのころのことだ。生け簀での養殖と区別し、栽培漁業と呼ばれた。

 尾鷲栽培漁業センターが古江漁港のすぐ近くに整備されたのはちょうどそのころ、1993年度から95年度にかけてのことで、96年度からマダイ、トラフグ、アワビの種苗生産をはじめた。栽培漁業の対象となるのはもっぱら高級魚と呼ばれるものになる。三重県の漁業は海域によってずいぶんちがい、尾鷲や熊野を中心とする東紀州一帯はマダイやブリ、ヒラメの養殖が盛んだが、海女文化のある伊勢志摩はアワビが強いといった特徴がある。

「私どもの仕事としては、これまでたくさん獲れていたものが減っていくなか、稚魚を放流して補うことにあります。単価の高い魚がその対象になります」と尾鷲栽培漁業センターで所長をつとめる岡田一宏さんは言う。この30年間で種苗を育てる技術が飛躍的に向上し、マダイやヒラメに関しては卵から育てて実際に放流できるようになるまで、かつてはざっくり5~10%だったものが40~50%にまでなったという。それだけ安定したということだ。同センターでは毎年マダイを60万匹、トラフグを23万匹、ヒラメを20万匹、種苗として放流し、資源の減少を食い止めるのに一定の効果を上げてきた。追跡調査によればマダイは10%、ヒラメは15%程度が大きくなって漁業者の手に戻り、トラフグはもっと高いという。

「こうした差のちがいは一言でいうのはむずかしいのですが、放流してからのエサの量や生育場の環境が魚種によって適しているか、適していないかが影響しているようです。ただまだはっきりとはわからないことのほうが多いです」。

これだけたくさんの魚を放流すれば、海がマダイだらけ、ヒラメだらけ、アワビだらけになってもおかしくはない気もするが、実際にはそうはならないのが自然の摂理である。残りの9割がどうなるかと言えば、かつては放流する先から防波堤などで釣れてしまう問題があったが、藻場など放流に適した場所を見極めることで改善できたという。それでもほかの魚に食べられたり、死んでしまうものが多いが、生き延びて世代交代を重ねている魚も少なくないと岡田さんは考えている。放流した10匹に1匹が戻ってくる現状で経費的にはトントンで、資源が減った分をほどよく底上げするかたちになっているとのことだ。

 種苗には値段がついていて、たとえばマダイ(40mm)30円、ヒラメ(30mm)40円、トラフグ(20mm)30円、アワビ(30mm)50円になる。それが海に放して大きくなることで10倍、20倍の値段になるのだとすれば、なんだか投資みたいである。

 「放流しても思ったようには生き延びません。なにが問題かはわからないことだらけです。本当のところを言えば、海のことはまだ1割もわかっていません」
海の命を与る岡田さんの言葉はあくまで謙虚だ。

文・写真/増田 幸弘(編集者)

青くて澄んだ海に泳ぐマハタの稚魚。陸上で種苗を育てたのち、海面で大きくする。