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東海エリア探訪記

2020.06.05

西と東を分ける関所
[ 三重県 亀山市 ]

関駅を出発して加茂方面に向かう関西本線の気動車。

 地方を訪れると、思いもかけなかったことを知ることがある。
「どうして関東とか関西というか、知ってます?」
 関で江戸時代から14代もつづく和菓子屋、深川屋の主・服部吉右衛門亜樹さんに問いかけられ、虚を突かれた思いがした。そう、たしかに「関東」「関西」という言葉を子どものころからなにげなく使ってきた。東西の方向感覚から、そんなものだと思った。でも、「関」ってなんだ?
「実はですね、この関から東が関東で、西が関西なんです」
 服部さんに言われて調べてみると、なるほど東海道の鈴鹿関、東山道の不破関(岐阜県)、北陸道の愛発関(福井県)を三関といい、かつてはこれより東側が関東とされた。関東を意味する範囲がいまよりぐんと広かったわけである。この鈴鹿関がどこにあったかは諸説あるが、関との見方が有力なのだ。宿場の古い街並みがいまも残る、旧東海道のほど近いところだったらしい。

 事実、関を隔てて東と西を分ける地理的な感覚はいまも息づく。名古屋から関に向かう関西本線は途中亀山で、加茂行きに乗り換える。一両編成か二両編成の気動車だが、時間帯によっては20分、30分と待たなくてはならず、接続が妙に悪い。どうしてだろうと思って尋ねたら、名古屋から亀山はJR東海、亀山から難波はJR西日本の管轄なのだという。
 それで厄介な目にあった。手持ちのパスモで名古屋から乗り、関で降りようとしたところ、自動改札がどこにもないのだ。夜で、駅にだれもおらず、途方に暮れた。無賃乗車をしてしまったと自責の念に駆られ、朝一で駅に行った。駅員は相変わらずいなかったが、案内所があったので聞いてみた。
「電車のなかで改札していませんでしたか?」
 言われてみればたしかに、車内に行列ができていた。でも、大きな荷物があり、通路が通りにくかったので開いていたドアから外に出てしまった。
「都会から来た人はみんなやるんだよね。帰りに名古屋駅で事情を話せば清算してくれますよ」
 案内所の男は笑った。ICカードが普及し、ずいぶん便利になった。切符売り場に並ぶこともなく、運賃表で行き先までいくらかを調べなくてもすむ。でも、自動改札がなければどうにもならない。バッテリーがなくなればカメラも電話もなんの役にも立たない、デジタル時代ならではの落とし穴だろう。結局、帰り、亀山駅での長い接続時間に難なく清算できたものの、滞在中、ずっとうしろめたい気持ちにつきまとわれた。
 実は服部さん、あの服部半蔵とも縁がある家系で、和菓子屋は忍びの隠れ蓑としてはじまったとの逸話がある。伊賀の里と関はたいして離れておらず、なんともリアルである。
「うちのあんこ、秘伝の忍術を応用したもので、腐らないんですよ」

 忍びの活動をしているとき、空腹を満たすのに食べたレシピが伝わる。だれにも教えていなかったことをこっそり教えている、そんな服部さんのそぶりや仕草に、忍びの血を感じないでもない。和菓子といっても大福や団子ではなく、関の戸という銘菓で知られる。500円玉ほどの小さなもので、和三盆の上品な甘みが口に広がり、たいへん美味。裏面には賞味期限が15日間とある。さすがに忍術のことはおおっぴらにはできず、そうするのが“関の山”のようだ(この言葉も関に由来し、関が京都の祭りに出す山車が立派なことからきた)。

文・写真/増田 幸弘(編集者)

いまから230年前、菓子を京都の御室御所に届けていた道中着が飾られる深川屋店内。